イギリス大学院留学

ロンドン大学東洋アフリカ学院(SOAS)での一年間の大学院留学生活に関することなどを綴ってます。

大学と大学院の違い、理論、美しいライティングスタイルの意義

*個人の経験に基づいた主観的な考察です。

今イギリスに留学に来ている人やこれから留学する人、いろんな選択肢がある中で最終的にこの道に進むと覚悟を決めた理由はなんですか?

特に日本だったら1年就職を遅らすのはメリットよりもデメリットの方が多かったりしますよね。

なんでですか??(本当にいろんな意見を聞きたいのでFBででも直接会ったときにでも教えてください)

 

 

以下あまり関係ない駄文と所感。

 

 

イギリスの学習システムは基本的に本をたくさん読ませ、理解度の確認やらでエッセーを書かされます。

学部生と院生が同じレクチャーにいたりするので最初は不思議に思いましたが、リーディングリストは違うものを配られ、量も違うんだとか。

 

日本だと、私の大学は授業の感想カードを書いて、それが成績の大半を占めることがほとんどでした。

ちゃんと授業に出ている人に対して不公平にならないようにとの配慮からだろうか。

なんて楽だったんだ。

 

こっちでは通用しません。

エッセーの一個一個が短い論文を書いているようです。

ただし違いは自分の意見をあまり出さないほうが安全だということです。(先生から言われました)

大学(日本)ではとにかく感じたことを長々と書けばそれなりに評価されると思います。

大学院では先行研究がどれぐらい進んでいるか、自分をその膨大なコンテクストの中でどのように位置づけるか、(他にももちろんありますが)この二点をクリアにすることがとても大事だという印象を受けました。

自分のArgumentを主張するにしろ、先行研究をバランスよくジャッジしてその上で自分の立ち位置を決めなければなりません。

 

自由な発想が好きな私にとってこの手の思想史の把握はできる限りとばしてきました。

しかし勉強してるうちにこれがいわゆる「理論」かという瞬間にたくさん出会います。

時には「理論」のすごさに感銘して鳥肌がたつこともあります。

誰にでも「あ、思い当たることがある」と、理論というのは幅広い実生活の経験における様々な場面に結びつけられるものだと理解するようになりました。

 

文系の学者の責任って結局なんなんだろうって常に自問自答していたけど、イギリスで勉強してきた数か月を通して徐々に答えを見出してきたような気がします。

日々の生活で、見えないけど肌で感じ取られる規則のようなものを言葉にして文字に書き起こすこと。

 

超大事かも。

 

政治のプロパガンダにしろ、市民運動のきっかけにしろ、人々を束ねあげられるためには曖昧で解釈の余地がある、それでいて誰の経験にも訴えかけられるような具現化された言葉は必要不可欠です。

 

 

国際機関や国際NGOインターンやボランティアの募集要件の項目を見ると、必ず洗練されたライティングスキルという項目があります。

開発分野のレポートで内容よりも書くスタイル自体が重視される傾向にあるのはモダニティの侵蝕と批判されてはいるものの、readableな文章を書くスキルというのは間違いなく高等教育で身に着けることを期待されていることの一つだと思います。

 

イギリスに来て(私だけでしょうか)いわゆるワーキングクラスとミドルクラスの人々の違いがとても鮮明なように思えます。

本人たちがそうした意識を持っているんだなと感じる場面がたびたびあり、自分が属するグループと他のグループの間で線引きしようとしている話し方に気が留まります。

インドやフィリピンなど他の国でも感じましたが、"educated"か”uneducated"かはある人物を描写するのにとても便利な形容詞。

このボーダーラインがその人の人なりのほとんどを説明してくれるような印象。

 

 

 

私は好きじゃない(´・ω・’)

 

 

 

かといって自分が100%その考えを持っていないかといったら嘘になるし反論してもなんなのでとりあえず同調する。

 

 

その後に襲ってくる罪悪感とやるせなさ。

 

弁論は得意じゃないから紙の上で戦えるようにがんばろう。

その意義を見出させてくれたイギリスの教育に感謝します。