パリ同時多発テロから考えたこと その2 (差別について)
私たちが現在普遍的に称している所謂テロは、欧米諸国、民主主義国家と称する国々のリーダーによって「人類普遍の価値への攻撃」で、断じて許せないものとして語られている。
これに対して声を大にして言いたいのは、
この人類普遍の価値とは、テロに限らず、世界で実にさまざまな形で踏みにじられており、踏みにじんでいる主体もさまざまである
ということだ。
無垢な人々の殺戮は社会という目に見えず、手に触れることもできない”もの”に対するフラストレーションが生み出した21世紀の症状であると病理学的に捉える意見に賛成だ。
テロという概念の歴史に関しては全く詳しくないが、反”社会的”な活動と公的な機関からラベルをはられた行為を考えると、その中にはもちろん弱者の反撃も含まれる。
コロンビアなど南米におけるゲリラ活動は、米企業に追い立てられた村民らが組織しはじめた。
しかし、ゲリラ活動そのものが生活のすべてになってしまうと、だんだんそれにコミットすることでしか生きられなくなり、元の目標が不明確になってくる。
不明確になるというより、それ以外に生きる方法がなければ活動と理想がきっと両立できなくなってしまうのだろう。
「踏みにじられたもの」による反撃の背後の物語を読むと、今宗教の名を実質汚しているジハディストたちは、どのような子供時代を過ごし、どんな夢を持ち、どんな人生の挫折を経験してきたのか、どのような体験がきっかけで悪の誘いが魅力的に聞こえるようになってしまったのか、いろいろと思いを馳せずにはいられなくなる。
「性善説」と「性悪説」があるが、ある知り合いの方が、海外の事業進出で現地の人々を雇う際に考えなければならないのが「性弱説」だとおっしゃった。
生まれながらにしていい人とか、悪い人というより、人間は誘惑に弱い生き物なので、その部分をコントロールする仕組みを作り出さないといけないと。
ほとんどの人は、先天のキャラクターを受け継ぎながらも、社会の中でどう生きるかはその後の環境に大きくかかっている。
「性弱説」から少し話を広げると、
例えば大富豪夫婦が敵の子を養子にして、後に真実を知らされた子供が実の親の仇を果たすために老夫婦を殺害するというストーリーがあって、やっぱりやつの血には悪い根性の沁み込まれている、というのではきっとなくて、
彼が数十年間の生活の中で、大富豪夫婦よりも記憶もかすかな実の両親が生きた世界により「近さ」なるものを覚えたからである。
客観的には命を救ってくれた老夫婦は恩人であり、殺すのはもってのほか、感謝しなければならない存在である。
しかし、私たちが見えていないところで、もしかしたら彼は育ての親が時々口走る実の両親へのののしりに怒りを覚え、同級生から生まれの階級について貶される日々に耐えていたかもしれない。(ハリー・ポッターをイメージしてもらえばわかりやすいですね)
それがある日、何かの拍子に彼の神経がプツーンと切れて、すべてを捨て、反撃を喰らわせる。
それは彼が生まれながらにして悪い子で、血なまぐさい性格を両親から引き継いだからではない。
社会が自覚なく、一人の人間を心理的に追い詰めた症状の現れなのだ。
しかし、彼ももっと強い心を持っていれば、誰かを殺すという行為に突き進むことなく立派になって暴力を伴わない形で復讐を果たせたかもしれない。
さて、前置きが長くなりましたが、フランスにおけるイスラム系(イスラムに見える人々)に対する差別について、私がシリア人の友人のジャーナリストから直接聞いたお話を紹介したいと思います。
彼は、私が事件が起きたスタジアムStade de Franceの近くのSaint-Denisという駅付近に1週間泊まっていたときのフラットメイトで、毎晩全員分の激うまシリア料理を作ってくれていました。
ある日、彼は普通に歩いていて公園を通り過ぎようとしたら、どこからか現れた警備員に「Interdit」(禁止)と言われ、足止めをくらった。
立ち入り禁止のサインがないので、交渉するも、ただただひたすら禁止と言われ、結局通れなかったが、他の人は普通に通っていたとか。。。
これはほんの一例ですが、普段みんながみんな普通に接しているように見えても、ムスリム系の顔立ちの人びと(や恐らく黒人も)は私たちが想像することすらない言葉を浴させられたり、さまざまな形の「暴力」を経験しているんだろうと思う。
アジア人に対するステロタイプといえば、細い釣り目:一回オーストラリアで両人差し指で目じりを釣り上げて威嚇してきた子供がいて殴・・・と思ったが、「傷つく」というレベルのものではない。
ただ、ロンドンで風邪と高熱で学校に行かなければならなかったとき、誰にも移したくなかったので、マスクをつけていたら、茶系肌のおばさんに
”Stupid Chinese people.”と吐き捨てられました。
彼女は白人ではありませんでしたが、ヨーロッパではマスクをつける習慣がないので、マスクをつけていると空気の汚れを回避しようとしている繊細すぎる人と解釈されることもあるらしい。
後になって、マスクを外し彼女に向かって咳をしてやれば良かったと思ったが、その日は1日しょぼーん(´・ω・`)ですた。
マスクを実際によく使っているのは日本人ですが、東アジアの文化束ねて認識されることが多いです。
いずれにしても、差別はステレオタイプとは比べ物になりません。
自分の信条、肌の色、見た目、あるいは性的嗜好によって、サービスを拒絶されたり、公然で罵られることは実際に経験してみないと到底想像できるものではありません。
その暴力に日常的にさらされている人々がいると考えると、やはり社会が病んでいると思いたくなるものです。
フランスにはまだ約3か月しか住んでいませんが、私が体験した限りではとてもいい国です。
(唯一嫌いなのは、夏の駅中はトイレ臭が充満していること。)
でも個人的に体験してない範囲で、嫌な思いをしている人がいるのも確かです。
テロ組織に力を与えてしまったそもそもの根源は、社会的な問題の中にあったのではないでしょうか。
Liberté, Égalité, Fraternité
「自由・平等・友愛」
もしこれら勝ち取られた人類普遍の価値観が、誰の心にも根付き、信条、見た目、宗教に関係なく兄弟愛が社会のどこの片隅にも届いていたら、ISISはヨーロッパから数万人の若者を引き付けることができなかったかもしれない。
編集追記:コメントをいただいて思い出したのが昨日見たV for Vendettaという映画の中のセリフ。国際ハッカー集団アノニマスのマスクの元になった映画ですが、その中に以下のような対話があって、コンテクストは違えど、植民地主義や武器支援、大義のための戦争と、その結果として生み出されたテロの因果関係をよく表していると思ったので引用:
V(主人公で国の生物実験の対象にされるも、唯一実験所から脱出できた一人で手を下した政治犯らに復讐を誓う): What was done to me created me. It's a basic principle of the universe that every action causes an equal and opposing reaction.(彼らが)私にしたことが私を作り出した。どの行為も同等でかつ反対のリアクションを引き起こすのは基本的な原則だ。
Evey(ナタリー・ポートマン主演の女主人公で彼女も両親を殺されるなど平坦でない道を歩んできている): Is that really how you look at it? Like an equation...?あなたは本当にそうやってみているの?同等の方程式のように?
V: What was done to me was monstrous!(やつらが)俺にしたことは怪物のような仕打ちだった!
Evey: And it created a monster...そしてそれが怪物を作り出したというわけね・・・
現実と映画の違いは、映画の中では本当に罪深い政治家たちが一人ひとり復讐のために殺されていくけど、現実では実際に悪事を計画し、それに手を下している人々には跳ね返らず、罪のない人たちが犠牲になっている点である。
Liberté, Égalité, Fraternité
「自由・平等・友愛」
これらは一段の歴史の終わりに勝ち取られ、新しい時代の幕を開けたが、歴史は繰り返されるも繰り返されないも歴史自体に終わりは来ず、変化し続ける。
でも価値観には終わりがある。
テロリズムは人類普遍の価値を攻撃しているが、人類普遍の価値のほころびから生まれているとも言える。
何かを勝ち取ったあと、私たちはそれをケアし続け、更に大きな愛を持って育てていく必要がある。
イギリスではそもそもステレオタイプや差別についてジョークを飛ばすことも語ることも良くないとされる節があるが、それに対してフランスは本当の意味での「自由」が国家の原則として根付いているし、それを肌で感じることができる。
(この空気の違いをものすごく伝えたいのだが、文章では限界がある。)
そしてこの自由さと尊重は決して両立不可能なものではないと私は確信している。
テロリストになってしまった人たちの中には、経済的な理由で参加した人もいるとニュースで見た。
どんなに挫折的な人生を歩んでも、倫理的な選択ができる人間がこの世に増えることを祈るのと同時に、人間が生まれながらにしてもつサガの弱い部分を社会の病で侵させない強い人間同士のつながりに期待する。
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